干しいもの歴史
1.サツマイモのルーツと日本への渡来
苗干し芋の原料はいうまでもなくサツマイモです。それでは、サツマイモの原産地はどこでしょうか。サツマイモだから薩摩、現在の鹿児島県だと思いがちですが、その先がずっとあります。 紀元前3,000年前に南米のアンデス方面で作られていたサツマイモを、コロンブスがスペインに持ち帰り、アフリカ、インドなどを経由して中国に渡り、それから琉球(沖縄)から鹿児島に入ってきたのです。沖縄へ入って400年、鹿児島で作られるようになったのは約300年前のことです。
(写真:さつまいも300年祭のパンフレット)
2.静岡のいもじいさん
1766年の春、駿河の国(静岡県)御前崎沖で薩摩の船が遭難しました。近くに住む大澤は船乗りの命を助けました。お礼にサツマイモを譲り受け、栽培法を教えてもらいました。それから台地の村でサツマイモが作られるようになりました。権右衛門は近所の人たちから「いもじいさん」と呼ばれるようになりました。それから約60年後、御前崎の近くに住んでいた栗林庄蔵は煮切り干しの製造を思いつきました。煮切り干しというのは、よく洗ったサツマイモを釜でゆで、包丁で薄く切り、セイロに並べて干し上げたものです。この煮切り干しの評判はよく、近所の農家も競って作るようになりました。これが「ほしいも」のルーツです。庄蔵も「いもじいさん」と呼ばれています。
(写真:大澤権右衛門の供養塔(左)栗林庄蔵の碑(右))
3.明治になってからの静岡での干し芋生産
1892年頃、天竜川の右岸にある大藤村(現磐田市)の大庭林蔵と稲垣甚七は、サツマイモを蒸して厚切りにして乾燥させる製法を考え出しました。今日の干し芋(蒸切り干し)の誕生です。
評判はよく、生産量は急増しました。需要が伸びたのは、1.煮炊きの必要がなく、いつでもどこでも食べられる、2.携帯に便利、作業しながらでも食べられる、3.腐る心配がなく、保存に適している、4.適当な甘さがあり、カロリーも多い、などからです。今風に言えば、ファストフードなのです。
大正時代に入ると、生産は静岡県全体に広がりましたが、中心は御前崎村のある榛原郡と大藤村のある磐田郡でした。1920年には静岡県全体の生産量は1万トン近くにまで達しました。
(写真:磐田地域での製造風景)
4.干し芋の創業者・湯浅藤七と小池吉兵衛
茨城県での干し芋製造は那珂湊(現ひたなか市)で始まりました。湊町のせんべい屋・湯浅藤七が1908年に干し芋の製造を始めました。それに目を付けたのが水産加工業者たちでした。宮崎利七は大規模な加工所を作り、収益を上げました。
同じ頃、湊に近い阿字ヶ浦(現ひたちなか市)の小池吉兵衛も干し芋製造を始めました。吉兵衛の弟・大内地山が時の知事・森正隆から勧められのがきっかけでした。それより10年ほど前に、同じ阿字ヶ浦の照沼勘太郎が干し芋づくりを始めたようですが、規模が小さく、広まりませんでした。
湊や阿字ヶ浦で干し芋づくりが始まったのは、冬に強い海風が吹くという気象条件が御前崎地方と似ている、北海道や東北に移出するのに、地の利がある、などからでした。
吉兵衛の胸像は阿字ヶ浦駅近くの堀出神社境内にあります。
写真:小池吉兵衛の胸像
5.干し芋の組織的普及に貢献した大和田熊太郎
前渡村(現ひたちなか市)の大和田熊太郎は村長兼農会長として干し芋の普及にあたりました。当時の前渡村は、財政が破綻し、村の中に対立、抗争がありました。熊太郎はこの村の立て直しを図るために積極的な農業発展策を講じる必要があると考え、干し芋製造を柱とすることにしました。
静岡へ視察に行き、静岡から干し芋の製造法の講師を招き、村の中で講習会を開きました。熊太郎の熱意と努力によって、干し芋の生産は年を追って増大し、1920年には前渡村甘藷蒸切干製造組合が設立されました。
県も農家の副業奨励と地場産業の振興を図るために、干し芋製造を支援しました。熊太郎の頌徳碑は長砂共同墓地にあります。
写真:大和田熊太郎の頌徳碑(左)、大和田熊太郎(右:写真集 「勝田の歴史」より)
6.サツマイモの神様・白土松吉
サツマイモの神様と呼ばれた白土松吉は農学校を卒業後、那珂郡役所に勤め、郡農会(農家の指導機関)の技手を兼務しました。那珂台地は畑作地帯で、陸稲の栽培が多いところでした(現在でも)。しかし、陸稲は夏に雨が降らなければ収穫がゼロの年もありました。松吉はこれを救うのはサツマイモの増収にあると考え、また冬場の農閑期の副業として干し芋製造を農家に奨励しました。
松吉は、時にはサツマイモ畑で寝るくらいに増収の研究に没頭し、千貫取りの技術を確立しました。松吉の頌徳碑は那珂市役所前にあります。
写真:白土松吉
7.精農たちの活躍
サツマイモを煮たり蒸したりして干し芋を作ることは難しいことではありません。それなのに、干し芋生産がこの地に定着したのはどうしてなのでしょうか。
湯浅藤七、小池吉兵衛、大和田熊太郎、白土松吉などの熱意と努力があったからなのですが、それを受け止める生産者がいなければ、干し芋は出来ません。戦前のわが国の農村での土地制度は地主制と言われていました。土地を所有する地主とそれを耕作する小作人がいました。地主の取り分は収穫量の半分に達しました。
この地域の農民は、熊太郎たちの勧めもあって、干し芋、スイカ、大小麦などの換金作物を作るようになりました。畑作物を作り、現金支出を抑え、金を蓄え、手放した農地を買い戻す人も出てきました。
こうして、干し芋生産は前渡村を中心に周辺の町村に広がっていき、1933年に県内の干し芋製造戸数は2,350戸、生産数量は3,260トンにまでなりました。しかし、戦争が激しくなるにつれ、サツマイモは主食に回され、戦争末期には干し芋製造は事実上禁止されてしまいました。
8.静岡と茨城の逆転
敗戦から5年後、経済の統制が撤廃され、干し芋の生産が始まりました。茨城よりも静岡の方が動きは早く、1,950年には戦前水準の7,000トンにまで復活します。茨城はそれより遅く、1952年に4,500トンになりました。
茨城では県の推奨もあって、干し芋生産は順調に伸び、1956年に1万トンを超し、翌年には16,000トンに達しました。那珂郡で県全体の98%を占めました。
静岡は1953年の7,875トンをピークに生産量は年々減少し、1955年には静岡と茨城の地位は逆転します。静岡は干し芋の生産を温室メロンやイチゴ、花の栽培に切り替えたため、です。現在ではごくわずかしか作られていません。
写真:昭和50年頃までの干し芋乾燥
9.干し芋日本一の座
1972年に茨城甘藷むし切干対策協議会が設立されました。生産者、業者(問屋)、関係機関が会員となり、買い付け価格の設定、品質向上のための活動、優良品種の普及奨励などが目的で、旧那珂湊市域で活動していましたが、その後名称を茨城ほしいも対策協議会と改め、現在ではひたちなか市、東海村、那珂市の生産者、取扱業者等と対象としています。
これより先、当時の阿字ヶ浦農協が原料イモのキュアリング処理を始めました。これにより、貯蔵中の腐敗を防げるようになりました。
対策協議会は2004年に三ツ星運動に取り組むことを決めました。生産履歴の記帳による良質原料イモの生産、加工施設の点検整備による衛生加工の実践、ステッカー貼付による適性品質表示の三つを指します。2010年時点で三ツ星認定農家は140名を超えています。
茨城の干し芋生産は2000年に再び1万トンを超しました。2008年の統計では、全国の生産額は70億円で、茨城が69億円、三重が1億円と、茨城が圧倒的なシェアを持っています。
10.全国ほしいもづくし
干し芋は前に見たように、サツマイモを煮るか蒸すかして、その皮をむき、薄く切って干せば出来ます。作るのは難しくありません。ですから、全国各地で同じようなものが作られてきました。今では分かりませんが、農林統計によると、一時期青森でも作られていました。
農文協という出版社が出した『日本の食生活全集』によると、干し芋は福島から鹿児島まで全国各地で作られていました。その呼び名もまちまちです。北から順にあげていくと、ほしいも、乾燥いも、切り干し、切り干しいも、煮切り干し、切っ干し、いも切り干し、ほっしい、きんこ、いもずるめ、いもするめ、干しかいも、いも干し、ゆで干し、ひがしやま、ゆでほしか、ほしか、いでほしか、ゆでかんころ、ゆがき切り干し、蒸しこっぱ、いもこっぱ、などです。きんこやひがしやまという呼び名は、それを聞いただけではなんのことか分かりませんね。
干し芋の歴史をもっと知りたい方は、先崎千尋『ほしいも百年百話』(茨城新聞社)をご覧ください